#26 by ritsuo / 2014.06.11
おじさんたち訴訟レポート

自治の尊重(地方自治法1条の2第2項)はどこへ行った?

再接続経費裁判の東京地裁判決全文のpdfファイルを、下記URLで公開します。

既に書いたことですが、今回の判決は主文では完全な勝訴でした。しかし「自治」がぜんぜん尊重されていないために、とても「後味の悪い」判決文になっています。そのあたりをぜひ読み込んでみてください。

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●再接続経費裁判東京地裁判決全文 41.2Mバイト PDF

で、腹が立つのでずっと考えてたのですが、どうもこの判決は、改訂住基台帳法の「住基ネット条項」や国・総務省の住基ネット政策が、地方自治法1条の2第2項の「制限」から逸脱していることを、シカトしてるように見えます。なので当然、「自治」を尊重しない。

地方自治法1条の2

第一条の二 地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする。

○2  国は、前項の規定の趣旨を達成するため、国においては国際社会における国家としての存立にかかわる事務、全国的に統一して定めることが望ましい国民の諸活動若しくは地方自治に関する基本的な準則に関する事務又は全国的な規模で若しくは全国的な視点に立つて行わなければならない施策及び事業の実施その他の国が本来果たすべき役割を重点的に担い、住民に身近な行政はできる限り地方公共団体にゆだねることを基本として、地方公共団体との間で適切に役割を分担するとともに、地方公共団体に関する制度の策定及び施策の実施に当たつて、地方公共団体の自主性及び自立性が十分に発揮されるようにしなければならない

基本法の趣旨から逸脱しない範囲で法条文は解釈・運用される

「地方自治法」は、自治体による「自主性及び自立性の発揮」などの基準に基づいて、国による法制度の制定や解釈・運用、政策の策定・実施を「制限」する「基本法」です。とくにこの1条の2第2項には、本来なら「憲法」に書かれてもいいはずの「国の権限の範囲」が言及され、それは「地方公共団体の自主性及び自立性が十分に発揮されるようにしなければならない」という「制限」を受けるものであるとの明示規定が行われています。

だから住基台帳法の「住基ネット条項」と「住基ネット政策」についても、それがどのような内容のものであれ、自治体の「自主性及び自立性」を尊重し拡大するという基本法の趣旨と整合するように解釈・運用される必要があるといえるでしょう。現状の「住基ネット条項」のように顕著な不整合をもつ場合は、改訂条項そのものの有効性に対する疑義も当然検討されていい。むろん国会で成立した法律である以上、何らかの手続きを経ない状態でただちに無効になるわけではないとしても、その解釈・運用は、基本法である地方自治法の趣旨を逸脱しない範囲で行われる必要があります。

「国の権限の制限」を、裁判所は無視できない

とはいえ、切断経費裁判と接続経費裁判では、国の「住基ネット政策」についても「住基ネット条項の国による解釈」についても、裁判の争点ではありません。これは当事者が自治体首長(現・前・元)と自治体住民なので、基本法にもとづく「国の権限の制限」については「前提」としていたとも理解できるわけです(原告おじさんたちはこれを認めないかもしれません。でも、ならばおじさんたちは法理論として、地方自治法1条の2第2項をどのように解釈をするのだろう?)。

ともかく、当事者間で明示的に争われなかったとしても、国の司法機関である裁判所は、この、基本法としての地方自治法の条文を、「住基台帳法住基ネット条項」の適用にあたってまったく考慮せずに判断することはできそうにありません。

実際、よくよく考えてみると、裁判所はこれを無視してはいないらしいのですね。

「住基ネット条項」は、自治体の自主性及び自立性が十分に発揮されるように

解釈・運用される必要がある

前回の切断経費裁判高裁判決と今回の再接続経費裁判地裁判決がともに、「前首長・元市長個人に損害賠償を求めていない」(実質的に責任追求をしない)という判断をしたのは、そういうことであったはずです。

端的に言えば、現行法体系の条文間にある不整合・自己矛盾は、より基本的な法規定(基本法)の趣旨に注目して、他の条文の影響をできるだけ小さくするように判決は書かれています。たとえ国・総務省の「切断は違法」という法解釈が(霞ヶ関や永田町、そして隼人町ですら)優勢だったとしても、地方自治の本旨(住民自治・団体自治)の手続きの中で形成された自治体の意思・政策(「切断」と「再接続」)の責任は、(例えば贈収賄のような自治的とはとうていいえない行為が関与するのでなければ)国(行政・司法)がその論理において追求するものでははないのです。

実際、今回の2つの裁判の手続きは、住民と自治体首長との争いという形式になっています。問題は、原告おじさんたちがそこで適用を求めている法制度と条文解釈が、地方自治法1条の2第2項を逸脱ないし無視しているのに、おじさんたちはそのことに無自覚だというところにありそう。

これは今に始まったことではないので、おじさんたちだけをせめるわけにはいかないのかもしれません。つまり私たちは、戦後60年以上の間、「地域社会における自治の自由」から「逃走」を続けていたのかも? 少なくとも地方自治の法制度改革では。

だけど、現に有効なはずの地方自治法1条の2の趣旨からみれば、こうした政策決定・実施の責任の追求は、地域社会・自治体の「自立性および自主性」において、自立的・自主的に行われることなのです(むろんこの趣旨から逸脱する条文は、現行法体系の中にいくつでも見つけることができます)。

地方と中央のパワーバランスの中で

切断経費裁判の高裁判決は、基本法としての地方自治法1条の2第1項(地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする。)を引用して、こうした司法のかくされたロジックの存在を示唆しているようです。

他方、再接続経費裁判の地裁判決はこれに何も触れないことで、「切断は違法」と国立市に回答した国・総務省の「顔も立てて」いるのでしょう。

とはいえ、どちらの判決も「実質的な責任追及を回避している」ことに違いはありません。むろんこのような裁判所のロジックは、明示されたものではないので判例として固定化されることはないーーという意味であやういものです。

西田亮介さん(公共政策、情報社会論。立命館大学大学院先端総合学術研究科特別招聘准教授)が「『不自由』な日本の地方――消費社会化は民主主義の敵か」(『日本 2.0 思想地図 β』vol.3、2012.7)で次のような指摘をしている。

日本国憲法と地方自治法はその出発点において「地方自治」の具体化は行わず、大日本帝国憲法下で形成された中央集権型の「地方統治」の制度を引き継いだ。その結果、政治摩擦の火種になりやすく、さらに利害対立も生じがちな旧制度と新しい制度をどのように架橋するかという問題が先送りされた。(p.429)

日本型福祉国家」「日本型雇用」「中央集権システム」からなる「日本的システム」は戦後 60 年にわたって、その根幹を維持してきた。ゆえに新しい方法やシステムに対する堅牢性がとても高い。これらをどう掘り崩すのか。ただ新しいものを擁護するだけでなく、旧来型の統治システムに埋め込む方法が問われている。(p.431)

ここで西田さんは、「旧来型の統治システムに埋め込む方法」に注目しているのですが、考えてみればこの手法は、敗戦から現在まで、繰り返し繰り返し自治体が採用してきた手法だったはずです。その間「問題が先送り」されてきた。でも変化がなかったわけでもありません。

90年代を中心とする「地方の時代」は、たしかに多くの成果をあげてきました(にもかかわらず多くの「問題」は先送りされた)。そのながれは、とくに基本的人権の確保に関連する場面で、途絶えてはいないでしょう。

現在は、国による「平成の大合併」をはじめとする、「地方の時代」に対するいくつかの対抗的な政策の成功が、地方自治を押えこんでいるように見えます。

中央集権型の「地方統治」の制度を掘り崩す

「大日本帝国憲法下で形成された中央集権型の「地方統治」の制度」が承継されている中で、地方自治法1条の2第1項2項は数少ない例外です。問題は、このような基本法・憲法があるにもかかわらず、その基本法にもとづいた法体系が敗戦後60年以上、ずっと整備されていないこと。基本法に合わせて従来の法体系を変更するのは当然なのに、日本国憲法制定から現在まで、自民党と中央政府官僚たちは「承継された(現在の)法制度」に合わせて、敗戦後新たに制定された「基本法(や憲法)」を改訂したいと願い続けているように見えます(その多くは近代以前ーー絶対君主制下の「国民国家」からかろうじて「立憲君主制の国民国家」に移行した「プレ近代の日本」へのノスタルジーなので、分野によっては、それは「原理主義」だと指摘されることもあるようです*1)。

むろん、例えば『里山資本主義』(藻谷・NHK広島、KADOKAWA、2013.7)が全国で読まれ急速にベストセラー化していく中で、この本が提唱する「地域経済循環」への関心と理解、そして実践の動きがあちらこちらで進められていますが、むろんこれらは「中央集権型の「地方統治」の制度を掘り崩す」活動といえるでしょう。

国はこれに警戒的で、「国民経済への一元的統合」を維持しようとしているようにも見えます。たとえば2014年冬、国が「木質ペレット」をいち早く霞ヶ関の官庁街で焚いてみせていたのが印象的でした。「木質ペレット」は今の霞ヶ関(そこは「中央」であって、「地方」とは呼ばない)で焚くようなエネルギー源ではないのですから、このパフォーマンスは「地方」を「統治」する中央政府の権力を示して見せたという種類のものでした。

こういう政治的環境下で、地方自治法1条の2第2項を、自民党政府と霞ヶ関官僚がいつまでシカトしつづけることができるか? 繰り替えしますが、この綱引きはすでに60年以上続いているのです。

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注*1:例えば、遠藤正敬『戸籍と国籍の近現代史』明石書店、2013.9。p.300以下では「戸籍原理主義」ということばが使われている。

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